ジョジョのブログ 運命の奴隷 その1

歴史を振り替えるときに◯◯だったら、◯◯をすれば、と言うことを、「たら、れば」という言い方をしますが、ジョジョにおいても「たら、れば」を考えてしまうときがあります。

もし、一部でダリオがその場に居あせなかったら、ジョナサンがディオに殺される悲劇も起きなかったのではないかとか、そもそも、ダリオに起こされるかたちにならなかったら、家族一同死んでいたのではないだろうかとか。

もし、ホリイに害となるスタンドが発症しなかったら、ディオを殺しにわざわざエジプトまでいかなかったんじゃないのかとか。

でも、実は、私たちが生きる人生の中でどうなっていくのかは、決まっていて、どうあがいても人生は変わっていかないという考え方です。

山あり 谷ありもすべて運命において決まっていて、自分が決めたものだったり、相手に変えられるものではなくてすべて決まっているものだと。

それが運命の奴隷。

その運命の奴隷から、逃れられることはできない。

でも、もしかして、逃れられることが出来ないと知ったからこそ、生きる道を切り開いて切り開いて進んでいくのですことができる人が居るかもしれません。

to be continued

ジョジョブログ 人と違うこと。

スタンドは、スタンド使いにしか、見えないというルールがあります。

ジョジョの物語の中で、スタンド使いかどうかを判断する時に、スタンドが見えるかどうかが一つの指針として見受けられます。

本体が本体を見ても、その人がスタンド使いかどうかは分からなくて、スタンドを出して初めてその人がスタンド使いということが分かるといった具合です。

そのあたりのルール付けは、3部の時から共通で、あとから追加されたルールなどもあります。

3部の時点で、遠隔操作型や近距離パワー型や自動操縦型などといったワードは出てこなかったと思います。

そして、第4部でスタンド使い同士は引かれあうといったワードが使われ始めています。

ジョジョの第4部が連載されたいた1992年の深夜放送でナイトヘッドという超能力ドラマが放送されています。僕はこのドラマが好きで、再放送か当時のVHSを何度も何度も見た覚えがあります。そのなかで、次のようなセリフがあるんですね。

 お前たちはマイナスのパワーをひきつける 

飛呂彦先生がスタンドは超能力を具現した姿と言っておられますが、ナイトヘッドの登場人物は、まさに、スタンド能力と同じような超能力をたくさん使用できます。

このマイナスのパワーというは、同じく超能力を持った人たちのことでナイトヘッドの物語の中でも、超能力者同士が、なぜか、頻繁に出会うんです。

もちろん、その物語の中でも、超能力を使用していないとき、もしくは遠隔操作しているときは、一般人と見分けがつかないので、本体はどこだ?と探すシーンも出てきますよ。

さて、話はそれましたが、ジョジョの中でも、能力者と非能力者が明確に区別されています。

特に3部以降のキャラクターたちは、ほぼ全員能力者です。

主要な人物で非能力者はスティーブン・スティールくらいなんじゃないでしょうか?

ジョジョの中では、特に描写はないですが、能力のある人と能力のない人の差はあるはずです。それは、現実世界でも同じです。

僕には、本当に能力がありません。頭は悪いし、ひらめきはないし、仕事も正社員ではないですし、いい容姿は持ち合わせていないですし、根性はないし、勇気もないです。何もかも、持っていない、完全に非能力者です。

昨日は、高校の同級生と忘年会がありました。

周りの同級生たちは能力者でした。

仕事もある。子供もいる。お金もある。家もある。

能力者同士は引かれあうですよね。たまたま、能力者に触れあいましたが、普段は、なかなか触れ合うことはないんです。

いろんな、刺激のある話がしたい。あれもやりたい、これもやりたい。でも、できないと、もどかしい気持ちで生きています。

何のために生きているのだろうとか、思うこともあります。

もちろん、このジョジョブログを見てくださっている方が、もしいらっしゃるなら、ジョジョを通じて生きる力を伝えてあげたいというのが、本音です。

でも、それを伝える力もないんですよね。

でも、きっと、努力をしていれば、きっと能力者になって、スタンド能力も身につけて、スタンド使いとひかれあうことになる気がします。

矢を体に受ければ、スタンド使いとして、覚醒できるんですよね。

でも、その前に、夜に選ばれないといけないですので、選ばれるように、必死で努力します。

本当に必死で努力しても、矢に選ばれなかったら、矢に選ばれたとしても、矢に貫かれてそのまま死に至ったとしても、もはや後悔はないです。

このジョジョブログと株式投資とダイエットを通じて人生を謳歌していく。それが、僕の生き方です。

ジョジョブログ 人に与える影響力

ジョジョ第5部におけるブチャラティチームのリーダーは間違いなくブチャラティです。

ブチャラティはチームを作り、そのチームに有能な(有能なスタンド使い)人物をスカウトしてブチャラティチームとして、活動していました。

もちろん、ブチャラティの言うことは絶対で、チームメンバーがそろっているときには、まずは、ブチャラティに一度聞いてからブチャラティが指示をするという形態をとっています。

逆にブチャラティがいなくてメンバーが二人や三人で活動しているときは、自己の判断で動くことが多いと思います。ジョルノの判断は後から思えば的確なのですが、実際に選択をする前には、メンバーたちと意見が食い違い、ジョルノに不信感も募らせていきます。

アバッキオは当初ジョルノが突拍子もないことを言うので、新入りのくせに生意気だと面と向かって言っていますね。

それが物語が進むと、ジョルノの的確で素早い判断に仲間たちも圧倒されていきます。そのうち、ブチャラティよりも幹部のように仲間を動かしていくとも思われるようになるくらいです。

皆さんの人生で、人生を変えるくらいの選択肢はどれくらいあるのでしょうか。

選択肢なんていうものは、生きてたらいくらでもあると思います。

お風呂に入るか、飯にするか、なんていう選択肢とも思えないことから、どこの学校やどこの会社に入る、どんな人と結婚してどこに住むなど、一回決めたら二度と変えられない選択肢まで、人生は選択に満ちていると思います。

本来、人間は一人なので、決めるのも自分自身です。

でも、選択肢が複数ある中で自分が信頼できる人が勧めてくれる選択肢には案外素直に従いませんか?

それは、その人が背中を押してくれるってことです。それって素晴らしいことだと思います。

ナランチャはブチャラティが組織を抜けると言った時に、自分では決められないからブチャティに「ついてこい」と命令をしてほしいと頼みますが、ブチャティは拒否しています。

ブチャラティは逆に自分で決めてほしいと突っぱねるんですよね。

僕は、人に命令するわけではないけれど、その人が進むべき道が明るくなるような助言ができるような人物になりたいと思っています。

サムケンさんがそう言われるなら、そうしてみようと言われるような人物になっていきたいです。

それは、おごりとも思われるかもしれませんが、そうやって、自分が泥まみれになったとしても、人の進む道を照らすような生き方をしていきたいと思っています。

ジョジョブログ 「覚悟を決める」の反対語

このブログでは、ジョジョにまつわる覚悟を多角的に見つめ、どうすれば、覚悟ができるかを考えてきました。

ジョジョで言う覚悟は、自分が生き残れる最善の策を考えながらも、多少の犠牲をいとわず、それ以上のものを獲得するというものです。

いつも述べていますが、ジョジョにおける覚悟にはスピードがつきものです。なにせ、自分の命のやり取りをしている相手と対峙していますから。そうですね。考える時間にして1分なんて長いほうで、状況によっては数秒なんてこともざらです。

そんな状況の中、ありとあらゆる可能性を考え、より良い選択をしていく、それがジョジョ、特にジョルノはそれに特化しており、さまざまな危機を乗り越えてきました。

さぁ、ジョジョのように自分がこれと決めたことをすぐに実行できる人はいいですが、そうではない人もいるでしょう。そういうことを日本語で何というのでしょうか。

躊躇(ちゅうちょ)と逡巡(しゅんじゅん)です。

これもなかなか面白いんもので、ちゅうちょは考える時間が一瞬を表すようです。しゅんじゅんはまぁ、どちらかというと長い考える時間のようです。

これと決めたら、躊躇も逡巡もせずに、突き進みたいものですね。

ジョジョブログ 何のために生きているのだろう 答え ジョジョを実践するために生きる。

僕は、42歳にもなって、年収が300万円にも届かないサラリーマンです。そんなとき、いつも、何のために生きているのだろうと自問自答をします。

その答えは、「ジョジョを見れればそれでいい」です。ジョジョアプリを使えば、毎日、無料でジョジョが読める、それ以上の喜びはないと思います。

何もしなくてもいいんですよ。何も考えなくてもいいんですよ。

少なくとも、食事ができて、寝るところがあって、バイトでも、パートでも、無職だっていい。

スマホさえあれば、ちゃんと通信さえできれば、毎日必ず1話はジョジョが読めます。

何の役に立ってなくてもジョジョさえ読めれば人生はそれでいいじゃないですか。

人に迷惑をかけていなくてジョジョさえ読めればそれでいいじゃないですか。

僕はジョジョ好きだけど、そんなに詳しくはないですよ。ジョジョブログやってますけどね。

でも、ジョジョが好きなことに変わりはないですよ。

ジョジョ好きな人と話がしてみたいという気がありますよ。

でも、僕は、ジョジョを通して、苦しんでいる人を本気ですくいたいという気持ちがあります。

ジョジョは、人生の教科書ですよ。苦しいことの乗り越え方、こらえ方、対処の仕方は飛呂彦先生が命を削って僕らに伝えてくださっているんですよ。

飛呂彦先生は、命を削って、僕らにメッセージを伝えようとしてくれているんですよ。それを僕らはちゃんと受け止めなければなりません。ファンは、ファンじゃない人にもその志を伝えていかないといけません。

それが、僕のジョジョの一ファンだけで済ませたくないという理由です。

ジョジョがとった行動、ジョジョの仲間がとった行動、ジョジョの敵がとった行動を知り、僕たちは判断基準にしていきます。

ジョジョは人生の縮図。ジョジョに出てこなかった場面に出くわしたら、飛呂彦先生にネタを提供してあげるくらいの気持ちで生活していきましょう!!

ジョジョブログ ジョジョ 最新刊発売!! ジョジョリオン 22巻本日発売 

僕たち、ジョジョファンは、飛呂彦先生を神のようにあがめ、いつも飛呂彦先生の作品を待っています。もちろん、コアなファンの方は全巻持っていて、持っていなくても全巻読破していて、最新刊が出るのを心待ちにしています。

そして、ジョジョリオン 最新、22巻 本日発売!!!

通算126巻目!!

第8部のジョジョリオン、今まだまさに現在進行形ですので、あまり、評価をできませんが、おそらく、振り返って読んでみるとむちゃくちゃ面白い、内容に違いないです。

実際、実は、その昔、第5部を読んでていたときも、そこまで面白いと思っていませんでしたが、今読み返すと、むちゃくちゃ面白い!!

ジョジョリオンの設定は、今までの1から7部から見てもとても異色な作品だとは思いますが、改めて読むときっと面白いです。今が面白くないといっているわけではないですよ。

これからも、飛呂彦先生の作品を愛し続けましょう!!

ジョジョブログ その成長は必然だった?

矢で居抜かれるにしろ、自分の努力や修行で強くなるにしろ、成長するといくことに違いはありません。

ジョジョのなかでも、波紋やスタンドが急成長することがまあまああります。

ジョナサンの森のなかでの修行、ジョセフのシーザーとの修行、承太郎のディオとの戦いのなかでの目覚め、仗助の、頭をけなされるときのプッツン?ジョルノのレクイエムか。

など、まだ、六部以降は思い出せませんが。

それらのすべては、何もないときに自動的になったのではなく、自ら、努力したか、危機に陥ったときに発動しています。

それは、人間も同じではないでしょうか?

なにも起こしたくない人生に、勝手に転機が起きるのは、本との奇跡だけで、大抵はたねをまいたあとのことを奇跡と呼ぶのではないでしょうか?

奇跡を信じるのは、ただ待つだけではなく、自分ができることを行ってこそ奇跡を待てるというもの。

それは、人事を尽くして天命を待つってことですね。

ジョジョブログ アバッキオの最後は切ない

アバッキオの最後。

アバッキオありがとう

ジョジョアプリでまいにちまいにちジョジョを見ています。

読み進めてやっとここまで来ました。

僕とアバッキオは似ています。

だから、アバッキオのように途中でダメになってしまうと、思わないように頑張るようにしているんです。

例え、この人生がなにも好転しないまま死んでも、人と比べて三分の一の人生しか歩んでいない、と、比べられても、自分ができることを最後までやったという自負があれば、それでいいのではないですか?

それは、アバッキオも同じだと思います。

突然訪れた死です。

そんなとき、後悔のない、生き方、死に方をしています。

ジョジョブログ 空条承太郎のように生きる

最近は、生きるシリーズで攻めています。いつかは、死ぬシリーズもやってみたいですね。

さて、空条承太郎は、どのように生きた人物でしょうか。

とりあえずのイメージは、冷静沈着、正確無比。ですね。

承太郎に出来ない作業は他の誰にも出来ないといったところでしょうか。

このブログでも書いていますが、ときたま承太郎もきれるときがあります。冷静のままあえてきれて見せることも多い承太郎ですが、本当に自分の感情を素のまま出したこともあります。

それは、3部の冒頭でホリイが、体調が悪いにも関わらず、承太郎のことを気遣ったシーン。

このシーンで、承太郎は、静かに休んでろと声を荒らげます。

本とはあついけど、無口だから、勘違いされやすい承太郎。

無言実行を承太郎のように実践してみたいですね。

ジョジョブログ 吉良吉影のように生きる

ジョジョにおいても、もちろんそうですが、いろんなアニメや物語の中で吉良吉影のような敵キャラは珍しいのではないでしょうか。なにせ、普通に生きることを幸せと感じているのですから。

何もなければそれでよいという敵キャラです。

しかし、その実像は凶悪な殺人犯。

自分にとっては、人を殺すことは、何も悪いことではないが、自分に対して、平安な生活を脅かすことは許さない。

三国志の曹操みたいな考え方ですね。自分さえよければそれでよいという。

でも、こういう考え方を持つことはとても危険なことだとは思うんですが、誰だってそういう気持ちを持っているのではないでしょうか。

実は、僕も孔子(論語)を読んだり、吉田松陰のことを読んだりしていた時に、聖人のように生きていくことを目指していた時期がありました。

たとえて言うなら、「日本のありとあらゆる秩序を乱さない生活」を推し進めていたことがあります。

例を挙げるなら

「道路の制限速度を1キロもオーバーしない。」

「電車に乗るときは常に周りを見渡してシルバー世代の方を見つけて席を譲る」

「家の周りでは、バイクのエンジンをかけないで(押して進めて)少し離れて、民家が少なくなってからエンジンをかける」

など、法律違反になりそうなことや、そうじゃなくても世の中のためや周りの人のいいと思われることを必死にやっていました。でも、そういうのは、やっぱり疲れますよ。なんでも、適度がいいです。

吉良吉影のように、人を殺してはいけないけれど、人間は、平穏を望んでいるんですよ。

何も起きなければ、そのほうが良いと思っている人が多いんじゃないですか。

でも、僕は、それでも、この世に生まれたからには、何かを人類のためにやりたい。

サムケンがいたから、こんなことができたなんて言われるようなことをしてみたい。

だって、せっかく生まれたんですよ。このまま何もしなくても死んでいくのであれば、何かをしてから死んでみたい。もちろん、吉良吉影のように悪いことじゃなく、いいことですけれどね。

まずは、自分の周りの人や、かろうじて見てくれているこのブログの読者の人を元気にしてみたいです。

そして、今日にも明日にもあさってにも命を絶とうとしている人の命を救ってあげたい。僕のようなぼんくらでも何か役に立つことがあると信じて生きています。

ぼくは、ぼんくらスターになります。