弱い人間だからこそ、弱音は吐かない。
言ったことは現実になるから。
疲れていても疲れているといわない。
つらくともつらいとは言わない。
その弱さがとてつもないうねりとなってものすごいパワーとなって、日本や世界を動かしていくんだ。
だから、弱音は吐かない。
ジョジョを通じて人生を高めていくブログです。ジョジョ以外のネタもたくさんあります。人生は戦いだ。
弱い人間だからこそ、弱音は吐かない。
言ったことは現実になるから。
疲れていても疲れているといわない。
つらくともつらいとは言わない。
その弱さがとてつもないうねりとなってものすごいパワーとなって、日本や世界を動かしていくんだ。
だから、弱音は吐かない。
自分の人生を振り返るときに(僕はよく振り返る)避けて通れないのが給料の件。
最初に就職していた会社といまのスイミングの給料を比べると、1億円以上違うことが分かった。
給料の良かった前の会社と給料の良くない(まぁ、自分は契約社員を選んでいるっていうのもあるけれどね。)今の会社を比較。
仕事が楽しいか楽しくないかっていう点では、うーん。難しいね。
今の会社は楽しい。明らかに。子供と遊んでるようなもんだしね。
ただ、2か月に一回テストもあるし、トラブルがあったりするとへこんだりする。夏や冬には短期教室があって、すごく早く家をでないといけなかったり、キャンプ、スキーといったイベントごともあって、楽しいけれど、それ以上に大変。
前の会社では、もちろん、楽しさはないよね。いろいろ仕事に追われている感じしかなかった。
今の会社では、信頼されている感がすごいあって、やりがいは感じる。
前の会社では僕は、できない社員の代名詞みたいな感じだったから。
やっぱり仕事を続けられたのは、楽しいってことが大きい。
給料が多くても嫌ならやめる。
給料が少なくても楽しかったら続ける。
もちろん、今の会社も入った当時は嫌で嫌でたまらなかった。
でも、続けるうちに楽しくなっていったんだ。それが
それが、自分が納得したってこと。
楽しさに納得したから、続けたってこと。
先日、最初に入った会社を辞めていなければ、今までの給料が1億円以上変わったという記事を書いた。
問題は、その「もし」の人生と「いま」の人生がどれだけ違うかということである。
良くも悪くも。
もしの世界は、仕事に追われて、いつもストレスを抱えていたと思う。
もともと、出来が悪い(天才には違いないけれど)ので、注意ばかりされていた。
頭の中では、いいことばかりが思い返されるけれど、本当は、もっともっと大変なことがあった。
その対比としていい給料をもらっていた、もしくはもらえるはずだったといえる。
今の仕事では、ある程度仕事を覚えてしまえば、こなれていく感じはあるが、前の仕事では、常に緊張と隣り合わせ。
やめた、やめなかったの話ばかり頭で考えてしまうけれど、辞めなかったら仕事を苦に自殺をしてしまった可能性も大。いや、確実だろう。どうせ、逃げ出していた。
なにせ、最初の会社はもちろん、ちゃんと正社員で入った会社は全部逃げ出して終わっているから。
そうか、社会人の初期の10年くらいは逃げの人生だったのだ。
何かあったら、逃げ。何かあったら、自殺。
そんなことも忘れて、前の会社にいればなんて、ほどがよすぎる。
そうだ、今思い出した。
いまのスイミングスクールの仕事を10年も続けられたのには、絶対に意味がある。
次回はそれを検証していこう。
保護された僕は、すぐに会社をクビになったわけではなく、会社に残るか、辞めるかの決断を迫られた。
一応、休職の扱いの中で。
続けるのにも、メリットデメリットはある。
メリットは超一流会社なので、在籍さえしていれば、給料はもらえる。
昇進はほとんど見込めないかもしれないが、年収300万くらいにはなるだろう。
続けるデメリットは、逃げ出した社員というレッテルを生涯張られ続けるということだ。
責任ある、仕事はさせてもらえないだろう。白い目で見られるだろう。
其れには耐えられなかった。
僕はやめる決断をした。
今思えば、辞めなければよかったと思う。
しかし、ここが納得ポイントなのである。
今でも、辞めなければと思っているっていうことは、そこに納得していないからだ。
納得していないから、落ち込む。
もし、辞めていなければ、今貰っている給料との差がおそらく、20年の間に1億円くらいあるんじゃないか。計算するとそうなる。
そう思うと、夜も寝られないのだ。
生きていると実感し、今更ながら、すべてを逃げ出しておきながら、まだ生きて何かできるんじゃないかと思ってしまった。
タイムレンジャーのアヤセのように。
そして、秋葉原の警察に駆け込んだ。
その駆け込んだ、理由というのは、今からでも、なくしてしまったお金を取り返してほしい。その女を逮捕してして欲しいというものだった。
すぐに身柄を照会されて捜索願が出されていることが分かった。
そして、秋葉原の万世橋警察に送られた。
その時に何を聞かれたか覚えていない。
でも、言われたことは覚えている、あなたは何も悪いことをしていないから留置所などにいれるわけにはいかない。
と、何か、黒板に仕切られた場所にて泊まることになった。
その黒板に生きて罪を償う。自分が味わったことを公開し、同じ目に合う人が少なくなるようにとチョークでものすごい勢いで書いた。
それは、誰に見てもらうということでもなく、自分に対して書いたものだ。
僕はそれを消さずに放置したけど、後で見た警察の方はどういう気持ちで黒板けしで消しただろうね。
一日泊まって、お父さんと妹が一緒に迎えに来てくれた。
怒られなかった。
その日まで、借金をしたことなどいろいろ怒られたけど、その日以来、そのことで一度も怒られていない。
生きている実感がした。
でも、運が悪くなったという潜在意識はもうどうにも消せなくなっていた。
今の時点でも、まだそれを思って生きている。
でも、本来僕はとんでもない、奇跡の軌跡で運がいい人間。
それをこの1,2年で確実に潜在意識に改めて刷り込ませる努力をしているのだ。
コンピュータの専門学校に入って僕は、持ち前の天才的な奇跡を発揮して、超一流のCTC(当時、伊藤忠テクノサイエンス、現伊藤忠テクノソリューションズ)に入れた。
なにせ、普通の高校も行けないくらい勉強していなかったんですよ。中学生の時は。
もちろん、学力試験も面接試験もありました。
なのに、まともに学力試験もできていない(マークシートだったので勘です)、面接試験も相手の話にうまく合わせただけなのに、まさかで学力試験は問題ありませんでしたって、おいおい、俺、勘がで書いたんだぜって言いたかった。
それくらい、当時は、超絶、運がよかった。
運の良さはそれでも、自分でも感じていました。なにをやってもうまくいく感じがあったんです。
しかし、いつか化けの皮ははがれるんだろうなと思っていました。
ほとんどNO勉強で入った僕と、ものすごい勉強しまくって入ってきたほかの同僚との差が1年目にしてやっぱり出てきた。
そこへきて一人暮らしでさみしさが頂点を極めた。
当時、京都で一人暮らしをしていたけど、名古屋までは車で2,3時間はもあれば帰れたから、レンタカーを借りて毎週帰っていた。
それを見かねた上司が、そんなに変えるのはやめなさいと止めた。
それから、さらにさみしくなって、少しでもさみしさを紛らわせるべく、風俗に落ちていった。
今度は、毎週風俗に行くようになってしまった。
そんなことなら、毎週名古屋へ帰ったほうがまだよかったのかもしれない。
風俗行くだけなら、まだよかった。
そこで、風俗の女二人から結婚詐欺に二度もあった。
そして、合計600万円もの借金を負ってしまった。
一家は散財。
それでも、親は借金を全部返してくれた。
その時から、自分は運が悪いと思ってしまった。
潜在意識がもうどうにもならないくらい運が悪い人生と思ってしまった。
なので、そこからは、どう頑張っても運がいい人生に転がっていかなかった。
なにか、失敗するたびにあの時は良かった、でもあの時は最悪だったと振り返るばかりの人生。
あの時に戻ったら、人生を棒に振らずに年収700万くらいで子供も孫も望める人生になっていたかもしれないと、そのことばかりしか考えてこなかった。
そう、人生は、納得しないと、後悔ばかりの人生になる。
其れを後悔のスパイラルから脱却するための選択肢はある。
しかし、それは、何度も何度も自分に言い聞かせないといけないので困難だ。
でも、それでも、つらくとも後悔の連続の人生でさらなるスパイラルに入るのだけは防げる。
ああ、思い出した。
俺は、すべてを捨てて逃げ出したんだ。
仕事もあったのに、逃げ出したんだ。
想像してみよう。
逃げ出した当日、もう自殺する気だったんだ。
仕事が死ぬほど嫌だったわけじゃない。
その結婚詐欺から逃れられなくて、一生涯、食うや食わずやの生活をしなければならないなら、もう生きていても仕方がないと思ったんだった。
その日は、朝、誰にも言わずにもちろん一人暮らしだったから行ってきますも言えないけど、家を出たんだった。
僕が東京で保護されたとき、捜索願が出ていたんだった。
それは、松山で出勤しないことを不審に思った会社の先輩が、きっと、会社に報告をして、大家さんに連絡をして、生存確認をしてもらったら、家には遺書がおいてあったというわけだ。
遺体が見つかったわけじゃない。
だから、お父さんとお母さんは車で松山まですっ飛ばして、松山市内を探した。
その日は、僕は京都に行っていたと思う。京都で結婚詐欺の女と会い、会話を交わして、さよならも言わずに東京に旅立ったのだった。
東京で、好きなサムライスピリッツ天草降臨をやってから死にたかった。
タイムレンジャーのアヤセと同じ名前の駅の綾瀬駅が東京にあるのを知った。
せめて、そこに行きたかった。
そして、秋葉原でサムライスピリッツの対戦をしてから、死のうと思った。
その日は、11月だったと思う。
どこで死のうかと迷っている中でなぜか、寒さが気になった。
電話ボックスに入った。
しかし、電話ボックスは寒かった。
そうだ。寒さが僕の命を救ったんだ。
その寒さで、僕はまだ生きていると実感したんだ。
正岡子規は、病気の痛みと寒さをしのぐために、忙しすぎてだめだというくらいせっせといろんなことをこなしていたらしい。
そうでもしないと、気が参ってしまったよう。
明らかに病人にしてはオーバーワーク。
そうでもしないと、生きくという気力がわかなかったようだ。
そう、スイッチングウィンバックができるのも、明日の希望が少しでもあるからだ。
もし、近いうちに死んでしまうとわかっていたら、スイッチングウィンバックをしようと思うだろうか。
これは、吉田松陰先生にも言える。
もしかしたら、吉田松陰先生は、牢獄入れられて二度と出られない可能性があった。
それでも、勉学を止めなかった。そして、牢獄の中でも、人と一緒に学ぶことを止めなかった。
これからの日本の復活には、必要不可欠な2つの事柄。
絶対にあきらめないこと。
可能性が限りなくゼロでも前を向いて進むことだ。
極力、食べるものを少なくして、悟りを開こうとしているのだけど、食欲は我慢できても、体は正直で節々が悲鳴を上げていたので、栄養ドリンクを飲んだ。
体が欲していたので、しょうがない。
ぶっ倒れるよりはましだ。
悟りを開くための第3章
それは覚悟。
覚悟ってこのブログでは毎日のように取り上げられるワードですが、そもそも覚悟って仏教用語で悟りを開くことなんですよね。
迷いから覚めることらしいから、今まさに覚悟なんだっておもいます。
あらゆる迷いから目覚め、すさまじい、力があふれてくる。
しかしその力は平成時にあふれてくるように使われるもの。
何かをするってことじゃなく、あふれるっていう感じなんだと思います。
本日で44歳を迎えたので、今日で悟りを開いて、世のため人のためにさらなる精進をします。
早いもので、44歳になりました。
44歳といえば、もはや人生の折り返し地点というべきですが、僕にとっては全然折り返しじゃなくて、いままでの人生で一番今が頑張っている、そして輝いている時期となっています。
コロナで色々大変ではありますが、決してあきらめることなく、頑張っていきたいと思っています。
いや、自分が頑張るのは当然ですが、僕の獅子奮迅の頑張りを見て若い人たちが、僕も私も負けてられるかと思ってくれるようにします。