悟りを開くための第3章
それは覚悟。
覚悟ってこのブログでは毎日のように取り上げられるワードですが、そもそも覚悟って仏教用語で悟りを開くことなんですよね。
迷いから覚めることらしいから、今まさに覚悟なんだっておもいます。
あらゆる迷いから目覚め、すさまじい、力があふれてくる。
しかしその力は平成時にあふれてくるように使われるもの。
何かをするってことじゃなく、あふれるっていう感じなんだと思います。
本日で44歳を迎えたので、今日で悟りを開いて、世のため人のためにさらなる精進をします。
ジョジョを通じて人生を高めていくブログです。ジョジョ以外のネタもたくさんあります。人生は戦いだ。
悟りを開くための第3章
それは覚悟。
覚悟ってこのブログでは毎日のように取り上げられるワードですが、そもそも覚悟って仏教用語で悟りを開くことなんですよね。
迷いから覚めることらしいから、今まさに覚悟なんだっておもいます。
あらゆる迷いから目覚め、すさまじい、力があふれてくる。
しかしその力は平成時にあふれてくるように使われるもの。
何かをするってことじゃなく、あふれるっていう感じなんだと思います。
本日で44歳を迎えたので、今日で悟りを開いて、世のため人のためにさらなる精進をします。
早いもので、44歳になりました。
44歳といえば、もはや人生の折り返し地点というべきですが、僕にとっては全然折り返しじゃなくて、いままでの人生で一番今が頑張っている、そして輝いている時期となっています。
コロナで色々大変ではありますが、決してあきらめることなく、頑張っていきたいと思っています。
いや、自分が頑張るのは当然ですが、僕の獅子奮迅の頑張りを見て若い人たちが、僕も私も負けてられるかと思ってくれるようにします。
人生はその繰り返しである。
それにいちいち反応していたら悟りを開けない。
僕は怒りっぽい。
なぜなのかはわからないけれど、すぐ怒る。
そんなこと、スルーすれば傷つかなくても済むと思ってもいちいち反応する。
だけど、それも43年間生きてきて変わってきたようだ。
なぜだろう。それは悟りに近づいたからか。
悟りを開くには死を意識せねばならない。
いつ、死んでも後悔しなくなった時、いい意味でどうでもよくなった。悪い意味でどちらに転んでも僕は悪くないと思うようになった。
それには、自分が正しいことをしているという自負が必要だ。
実は今日、なぜか、自分の自転車のハンドルの右側部分のギアとブレーキを取り外されて盗まれていた。
今までなら、怒り狂っていただろう。
しかし、一瞬、怒ったものの、冷静さを取り戻せた。
前ブレーキはきかなくなった。ギアもかえられなくなった。
でも、走れた。
それだけで、よかったと思えた。不幸中の幸いだったと思えた。
自分は絶対的に世の中に対して正しいことをしている。
その自負が心に対して安らぎを与えた。
悪いこともいいことに思えるようになってきた。
今までつらいことばかりがあったから、そのうち、いいことが起こるよ。
僕も僕の家族も日本にも、そして世界にも。
何かをしていないと、変なことを思ってしまう。
今、借金に追われていて、忙しくしていないと自殺してしまうというようなときに使われる。
僕は、悩みが多すぎる。
結婚していないことも悩みだし、給料が低いことも悩みだ。
そして、はげだし、毛深いし。
そういうことを思うと、なんて僕は悲しい人生だと悲観に暮れてしまう。
そんなとき、文章を書く。ブログを書く。日記を書く。
自分の思っていることを書く。
とくにこのジョジョブログバーサスでは、読者がゼロなので、どんなことでも書ける。
もちろん、僕がビッグになって、あのサムケンがこんなに悩んでいたんだと誰もが見る日が来るだろうけど、今は、何をやってもうまくいかなくて、悩んでいる。
そんな時は、とことん書くんだ。意味がなくてもいい。自分の思うことをとことん書くんだ。
それが僕のスイッチングウィンバックかもしれない。
悟りを開くことを考える前に、どんな状態になったら悟りを開いたといえるのか。
国語辞典やネットを活用してその意味を調べることは無意味だ。
なぜなら、悟りが開かれること自体、その人それぞれで違うからだ。
僕にとっての悟りとは、未来の不安を何も考えなくなることだ。
僕ははっきり言って仏教は知らない。だから、悟りという言葉の意味に定義があるなら、その悟りという言葉を捨てねばならない。
ともかく、僕が目指したいところ、それは、いわゆる仏教の悟りといわれるものに近いと思われ、何事にも動じない境地。
それは、世離れした世界かもしれないがそれはわからない。
そして、僕は思うのは、吉田松陰が目指したようにただ一人で高みを目指すのではなくて、日本国民全員が目指すところだ。
意味のないネットサーフィンを止め、意味のないテレビ、YOUTUBEを見るのを止め、挙句の果てには意味のない読書さえも。
そうすることで、皆が、日本を高めたいと思い、そしてひいては世界平和を目指していく。
そんな境地になっていきたいのだ。
もちろん、仕事のことや将来のことで不安になることはある。しかし、それを延々と頭の中で繰り返していては、何も進まないってことだ。
人生に悩みに悩んで一つの到達点にたどり着いた。
悩みの種類で最たるものは、死への恐怖。
もちろん、食べるものがないというのも死への恐怖である。
餓死の恐怖は、今の日本人なら味わったことがある人は少ないだろう。
事故や災害で死ぬかもしれない恐怖。
人間は、いつどんな時に何に遭遇するかわからない、しかしその確率は今の日本では少ない。
病気になって死ぬ恐怖。
これも、遺伝的なことや確率的なものでもあるので操作できない。
誰かに殺害されるかもしれない恐怖。
誰かに極度に恨まれたり、決定的ないじめを受けてたり、ストーカーや場当たり的な殺人者に巡り合わない限り、今の日本では、殺害される可能性は低い。
ありとあらゆる死に方があるなかで、とりあえず、いま、上記に当てはまっていない場合は、本当に恐れるものは、ないってことだ。
最近、読んだ本では、年をとればとるほど、死への恐怖がうすらいでいくという。
それは、死んだ後に死んだ本人に影響を及ぼすことがもうないと知っているからだ。
もちろん、残された人には影響があるかもしれないけど、死んでしまったらもう自分にはどうしようもできないことを知っているからだ。
そんな時は、逃げたらいい。
そんな時は、何もしなくてぼーっとすればいい。
そんな時は、ゲームをずーとすればいい。
そんな時は、映画を見ればいい。
そんな時は、旅に出ればいい。
そんな時は、歌を歌えばいい。
そんな時は、同じ音楽をずっと聴けばいい。
それもこれも全部終わったとき、新たな何かがつかめるはず。
それが、今の僕にできるスイッチングウィンバック。
人は、なぜ、モチベーションをなくしてしまうのだろう。
今の僕がそうだ。
今のスイミングスクールの仕事についてから12年間。
まず、最初のモチベーションは、もう30歳になっていたから、これから、新しい業界への転職はまず難しくてやめられないってこと。
何度も苦しいことがあった。しかし、今までの苦労を思うと、それほどでもなく、子供も好きなので、続けられた。
仕事を始めて7年くらいがたったころ、お母さんが亡くなった。
その時のモチベーションの下がり具合はひどいものだった。
でも、その時は、まだ、死ななくてすんでいるというのがモチベーションだったから、まだよかった。
今から、3年ほどまえ、自分が自殺を考え実行した松山に足を踏み入れて、今までのことを洗い流せた。
すると、今度は、この世の中で何かを果たしたいと思えるようになった。
その時に考えたのは、お母さんが亡くなった今、お父さんが仕事を辞めるまで、必死でお父さんを支え続けるというものであった。
そして、先週、とうとうお父さんが仕事を円満に退職した。
どれだけ安心したか。逆に僕のモチベーションが下がってしまった。
そのモチベーションをどうやってもどそうか。
どうやって、スイッチングウィンバックを起こそうか、今悩んでいる。
僕には、何も持っているものはないかもしれないけれど、生まれてきたからには、何かを成し遂げたい。
そう、吉田松陰先生のように。
僕は、伊藤博文という人物があまり好きではなかった。
松陰先生から学ぶものは何もなかったと発言したとなにかで読んだ気がしたから。
でも、本当の意味で吉田松陰先生の考え方を実践していたのは、伊藤博文かもしれない。
僕は、天から選ばれた人間。
この世の中に安らぎを与えるために。
しかし、実際の人生は苦悩の連続。
運はいい。
そして、この世の中のために僕ができることがないかをいつも探している。
しかし、うまく出てこなくて、株式投資も、本当は、家族の生活費の足しにしたいというのももちろんあるけど、ほんとは、そのお金で、なにか、世の中のためになることをしたい。
でも、うまくいかないよな。